古書探訪〜ある愛読家の記録〜

本の魅力に取り憑かれた男の追憶

詩は誰にでもできる表現手段だ 自作詩のススメ

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僕は詩を書くのが好きだ。

 

心がふと何かに動いた時、

その衝動を言葉を使って、

書き留めておきたい。

 

そんな想いから詩を書き始めた。

 

僕にとって詩は言うなれば

スケッチのようなもの。

 

心象を言葉という絵の具で、

紙に描いていく。

これが僕なりの詩。

 

特に歴史に残る名詩が、

書きたいわけでもない。

 

ただ表現方法として、

詩が一番身近に感じたから、

詩を選んだ。

 

小説はプロットを考えたり、

短編でも数千字も必要とする。

 

小説は好きだけれど、

僕のように普通の会社員は、

小説で自己の感受性を

表現するのは現実的にむずかしい。

 

一方、詩なら忙しくても書ける。

 

今は便利なもので、

スマホでも自作の詩を

残しておける。

 

パソコンという手もあるけれど、

僕はスマホが好きだ。

 

パソコンで書くのは、

文字入力が早すぎる。

 

思考のスピードより、

キーボード入力のスピードが

速すぎて、言葉が垂れ流される。

 

ぽちぽちぽちと、

スマホでゆっくり入力する方が、

言葉を選ぶ時間があり、

思考のスピードともあっていて、

良いと感じる。

 

こんな僕なので、

詩については詳しくはない。

 

散文と韻文の違いすら曖昧だ。

 

詩を表現の手段としてしか見ていない、

書きたいという衝動はもちろんあるが、詩という形式がただそれにしっくりきた。

 

こんな理由で詩を書き始めたので、

詩を学問として見る人、

詩集を読むのが好きな人から見たら、

僕の詩なんてなんもなっちゃいないだろう。

 

今でこそ、詩集を買って読むようにはなったが、

書きたいが先で詩があとからついてきたので、

僕の詩に対するご批判は甘受したい。

 

でも一つ言えることは、

詩は読むのも面白いけれど、

書くともっと面白いと言うこと。

 

敷居が高い芸術のように思えるけれど、

もちろん高いんだろうけれど、

自分を表現する手段としては、

社会人にうってつけであるということ。

 

また人に見せる必要もない。

ただ書きたいなら書けばよいということ。

 

これらは、僕が自信を持って言える事だ。

 

いつか、このページを読んで、

僕に詩を送ってくれる人が

現れたら素敵だな。

 

そんなことを思いながら、

筆を置きます。

 

 

喫茶店と読書

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今、喫茶店にいる。

 

駅前にあり、平日の昼間は

おじさんおばさんの井戸端会議の場として賑わう

どこにでもある、いやどこにでもあって欲しい喫茶店

 

僕は喫茶店が好きだ。

 

ジャズが流れる暖色色の店内。

 

コーヒーを飲みつつチーズケーキをつまみ、お気に入りの本を開く。

 

今日は吉田篤弘さんの神様のいる街を

持ってきた。

 

上林暁との出会いについて書かれた部分を

再読したくなったためだ。

 

本との出会い、作家との出会いが

私生活感漂う文章で書かれていて、

吉田篤弘上林暁両人ともに

さらに好きになった。

 

疲れたら周りの会話をBGMに

タバコをくゆらせる。

 

人と人が集まりいっとき交差し、

また散りばめられていく。

 

街には喫茶店が必要だ。

 

上林暁が好き 僕が愛してやまない私小説家

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上林暁(かんばやしあかつき)との出会いは

吉田篤弘さんのエッセイだった。

 

つむじ風食堂の夜」で有名な、

吉田篤弘の作品「神様のいる街」に

上林暁について語られている箇所がある。

 

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吉田篤弘の書く世界観に魅了されていた、

当時の僕は

 

『こんな素敵な世界を創り出す人が、買い漁り、読み漁った作者はどんなにすごい人なんだろう。。』

 

と、一遍に上林暁に興味を持った。

 

それから程なくして、

いきつけの小さな本屋さんに、

上林暁さんの選集が置かれていた。

 

あっ、見つけた。。

 

目に上林暁と言う文字が飛び込んできた時、

僕と世界は切り離され、

宇宙の中に漂っているような、

感覚に包まれた。

 

大袈裟かもしれないが、

そんな心地だった。

 

そしてしばらく僕は、

「星を撒いた街」と向き合い、

世界から隔離されていた。

 

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家に帰り早速読んだ。

 

淡々とした飾りっ気のない文章。

作品のテーマは私小説らしく、

身の回りで起こることばかり。

 

最近の作家さんが書いたような、

社会的なテーマといった大それたものはない。

なのに、惹き込まれる。

 

上林暁の書く淡白な文章が、

僕の脳内世界で変換されて、

色鮮やかな世界を創り出す。

 

すごい作家さんだと思った。

本を胸に当て両腕で抱きしめた。

僕と上林暁を引き合わせてくれた、

吉田篤弘さんに感謝した。

 

それからと言うもの、

上林暁の本を読んではしばらく離れ、

色んな作家さんの本を読み、

そうしているうちにまた上林暁

文章が恋しくなっては、

上林暁を読みを繰り返している。

 

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「ばあやん」という上林暁の第27創作集のなかに

文士 という言葉が出てきた。

 

言い得て妙だと思う。

 

飾るわけでなく、

表現技法に凝るわけでなく、

(技術が高度すぎて、技術臭さがないと言う風にも思えるが)

静謐・誠実に文の道を邁進した

上林暁の文章。

 

文学好きなら、

是非とも一度は、

読んでもらいたいと思う、

僕が大好きな作家さんです。

 

 

 

詩 〜ふとこころ〜

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ふとこころが悲しくなるときがあります

 


夕暮れどきの黒々とかすんだ山並み

対象的な波うつ赤々とした雲の海

湖色と金色の混じり合った空

何処かに飛んでいく一羽の鳥のシルエット

後ろを振り向けば

夜が迫り

聖者のように僕を見下ろすお月さま

身体を撫でる柔らかな夏の黄昏風

 


刻々と表情を変えるこの世界に身を置いていると

 


なんともなくぽつんと心が寂しく心もとなくなるのです

 


悲しみっていいものですね